はじめに
続日本100名城に選定されていて、国の史跡にも指定されている山梨を代表するお城です。
山梨と言えば武田信玄。信玄と言えば甲府ですが、武田家の晩年はこの新府城が本拠だったそうです。
果たしてどんなお城なのでしょうか。
登城開始
最寄り駅はJRの新府駅。
ここから徒歩で15分ほどとの事。
すこし歩くとすぐに新府城があるであろう小高い山が見えてきます。
新府城は、武田家最後のお城。
1581年、武田家滅亡の直前に当主の「武田勝頼」によって築かれたそうです。
1582年、織田信長による武田攻めが開始され、先鋒の織田信忠軍は伊那の「高遠城」を落とすなど、武田家をどんどん追い詰めていきます。
武田家内でも裏切り、離反などが相次ぎ、まさに絶体絶命の状況に追い詰められていた武田勝頼。
そんな絶望的な状況の中、彼はどのような心境で、近く訪れるであろう滅亡の時を迎えようとしていたのでしょうか。
さて、三の丸も抜けてきて、城郭南側の大手跡までやってきました。
ここが新府城の一番の見所でしょうか。
枡形と丸馬出しが復元整備されていてとても見やすく、見ごたえがあります。
城内側から、枡形虎口→丸馬出し→三日月堀と並んでいるようで、丸馬出しの両サイドにも枡形がみられます。
土塁で囲まれた空間ですね。
丸馬出しや、三日月堀は武田系の城郭の特徴ですね。
しかし、新府城は武田家滅亡後の天正壬午の乱に於いて、徳川家康が陣を張ったとされている場所で、この頃に結構な改修がなされた可能性があるようです。
静岡県の諏訪原城なんかも徳川時代の改修であるという説が有力ですよね。
新府城のこのあたりの遺構は武田時代か、それとも徳川時代のものか、非常に気になるところです。
新府城の最後
武田勝頼が築いた新府城ですが、その時期は同盟関係にあった北条氏や大阪本願寺との関係悪化、さらに迫りくる織田信長への備えとしてこの地に築城がなされたと言われています。
しかし、時代の流れには逆らえず。
武田家最後の砦とも言える高遠城は落城。
新府城でその知らせを受けた勝頼は、岩殿城へ撤退する事を選択。
新府城には火を放つ事になります。
勝頼の新府城での生活はわずか3か月程で幕を閉じる事となりました。
恐らくは決死の思いでの築城だったであろう新府城。
この様な形で破却する事になった勝頼の心中は、察するに余りあります。
そして最後は家臣の裏切りなどもあり、追い詰められた勝頼は天目山にて自害。
戦国大名武田家は滅亡。新府城は武田家最後のお城となりました。
死にゆく未来をある程度予見していたであろう勝頼が、最後に過ごした居城「新府城」
今ではこの地を訪れ、その最後の想いをしのぶ人達が沢山居るようです。
お城好き、歴史好き、そして戦国好きの方にとって、最強軍団武田家の魂が眠る新府城は外す事が出来ない地だという事でしょうか。