登城のススメ

日本のお城とその歴史についてつらつらと。

【高遠城】主家への忠誠心【100名城】

戦国時代最強の軍団といえば必ず名前が挙がる武田家

守護の時代から甲斐を支配し、信玄の代に最盛期を迎えます。

 

しかし勝頼の代には長篠の戦いで織田、徳川に敗北。

その後も織田との対立は避けられず、武田家存亡の危機を迎えて行きます。

 

そして1582年、武田家最後の戦いが行われます。

それがここ高遠城で行われた高遠城の戦いです。

 

最強軍団武田家滅亡のきっかけとなる戦が行われた高遠城

どんなお城なのか、今回もじっくり見ていきたいと思います。

 

 

登城記

今回は鉄道を利用しましたので、JR伊那市駅からバスで向かいます。

 

伊那市駅から伊那バスターミナルまで徒歩。

そこからバスに乗り、高遠駅で下車します。

伊那市駅から徒歩で5分ほどにある伊那バスターミナル

乗車時間は20~30分ほど。高遠駅に到着です。

高遠バス停から城跡方面へ

高遠駅からは一直線に城跡公園を目指します。

高遠の町並みを楽しみながら歩いていきます。

 

高遠城入り口に到着です。

さあ城攻め、始めていきましょう。

平山城高遠城。少し登っていく。

 

見どころ①伝・大手門

 

高遠城は1872年に廃城となり、その際に城内の建物は全て引き払われました。

この門はかつてここ建っていた「高遠高校」の正門として1954年にこの地に移築され、1984年まで使用されていました。

 

 

城の大手門として使われていた当時は櫓門形式だったと伝えられていますが、現在残る門は形が改変され当時の姿は留めていないようです。

恐らく江戸時代に遡る貴重な遺構。

是非チェックしておきたいですね。

 

さて、お城の中心部を目指したいと思います。

入場ゲートは数か所ありますが、今回は広大な駐車場のあるグランドゲートから入ります。

駐車場になっているその場所は、勘助曲輪と呼ばれている。
山本勘助が普請したと言われているが、真偽は不明らしい。

入場ゲート。さくらの時期(年によって変わる)は入場料が必要。大人500円、小中学生250円

遺構を楽しみながら本丸を目指して行きましょう。

見どころ②曲輪を囲む空堀

高遠城で見逃せないのが、各所に張り巡らされた空堀

曲輪と曲輪を隔てるように堀が掘られており、現在でもその姿を見ることができます。

南曲輪付近の空堀

本丸を囲むように張り巡らされた空堀

堀底から白兎橋を見上げる。堀が奥までのびてその先は竪堀へ続く模様

ところで高遠城といえば戦国時代のお城というイメージがあったのですが、現在見られる曲輪などの遺構はその頃のものではなく、戦国末期~江戸初期頃に改修されたものだそうです。

 

なお、堀などは一部、戦国期のものを踏襲しているという説もあり、武田式の築城術に触れることができると言っても良いのではないでしょうか。

 

見どころ③本丸からの中央アルプス

いよいよ本丸へやってきました。

ここには、昭和初期まで時を告げる太鼓を撃っていた太鼓櫓が残ります。

明治時代に作られた太鼓櫓。1877年に現在の場所に移築されたらしい。

本丸を囲む土塁も見られます。

やはり高遠城、土の城といった印象です。

土塁は本丸南西側によく残る。

ここ本丸は春は桜が咲き乱れるようですが、今は秋なので桜の写真はありません。

しかし秋の姿も、それはそれでとても美しいです。

 

そして秋の空の向こうには中央アルプスを望むことが出来ました。

中央アルプス木曽駒ケ岳

長野県のお城というのは、雄大に聳える山々に囲まれとても美しい景色を楽しむ事が出来ます。

 

ここ高遠城もその筆頭のようですね。

 

次回は是非とも桜のシーズンに来てみたいです!

 

城主を想う「仁科盛信

1582年、織田信長は武田家を滅ぼすべく甲斐へ侵攻。

嫡男の信忠は五万の兵で高遠城へ迫ります。

 

高遠城の時の城主、仁科盛信は信忠の降伏勧告を退けてわずか三千の兵で迎えいったといいます。

当然ながら、迫り来る敵兵の勢いに三千の城兵は次々と打ち負けていったそうです。

 

高遠城を、そして武田家守ろうと決起する仁科盛信も最終的には城内で自陣。

この戦いでの敗北が、武田家滅亡の決定打になったようです。

 

武田家最後の戦いの一つとなった「高遠城の戦い」

徹底抗戦を選択した仁科盛信の心境はどのようなものだったのでしょうか。

 

長年使えた主家への忠誠心恩義があったのでしょうか。

はたまた全国にその名を轟かせた最強軍団「武田家」の威信を守ろうとしたのでしょうか。

 

今となってはその答えを知る術はありません。

しかし、ここ高遠城にだけは最後まで鼓舞奮闘した勇者の想いが眠っているはずです。

 

過去の声を聴き、そして未来へと繋げていく。

お城を愛し、お城と共に生きる一人一人にその役割が与えられているのかもしれません。

高遠城のあゆみ

14世紀頃

諏訪氏一族の高遠氏が居城とする。

 

1545年頃

武田信玄伊那谷侵攻により、武田氏の居城となる。

この頃に山本勘助秋山虎繁などによって大々的な改修が行われ、高遠城は武田氏の信濃攻略の拠点となる。

 

1556年

秋山虎繁が城主となる。

 

1562年

後の武田家当主「武田勝頼」が高遠城に入城。城主となる。

 

1570年

勝頼は武田家の当主として甲府躑躅ヶ咲館へ入る事となり、信玄の弟「武田信廉」が高遠城主を務める。

 

1581年

織田家との対立の激化に伴い、高遠城には信玄の五男「仁科盛信が入る。

 

1582年

織田信長の武田攻めに於いて、壮絶な戦いの舞台となる。(高遠城の戦い)

信長の嫡男「織田信忠率いる五万の兵が高遠城を包囲。城は一日ともたず落城。

城主の仁科盛信は自刃する。

 

本能寺の変後、空白地となっていた高遠城に武田旧臣の保科正直が入城する。

 

1600年頃

関ケ原の戦いの後、保科正直の息子正光の入封に伴い高遠藩が成立。

高遠藩の政庁として保科氏鳥居氏内藤氏が城主を務め明治維新に至る。

 

1872年

廃藩置県により廃城。

 

1876年

高遠城跡公園としての整備が始められる。

荒廃した城内に桜(高遠コヒガンザクラ)の植樹が始められる。

 

1973年

国の史跡に指定される。

 

2006年

日本100名城に選定される。

 

現在

地域を代表する観光名所「高遠城址公園」として往時の面影を今に伝えている。