登城のススメ

日本のお城とその歴史についてつらつらと。

【飯盛山城】もっと知りたい!飯盛城と三好長慶を【続100名城】

はじめに

飯盛山城は大阪府の東部、大東市四条畷市にまたがる飯盛山に築かれた山城です。

日本100名城に選定されており、つい最近、国の史跡に指定されたことから非常に注目度の高いお城と言えるかと思います。

 

ここを居城としたのは、戦国時代最初の天下人と言われる「三好長慶

長慶は織田信長よりも先に、畿内を掌握、飯盛山城を中心に三好政を樹立したと伝わります。

 

ザ・ファースト天下人の三好長慶はどのような城を築き、どのように天下を見ていたのでしょうか。

 

その答えのヒントが眠っているかもしれない飯盛山城。

ワクワクと期待感を胸に、いざ登城開始です。

 

 

城跡までのアクセス

主なアクセスルートは2種類。

JR四条畷駅から徒歩で向かうルート。

JR野崎駅から徒歩で向かうルート。

※車の場合もどちらかの駅付近のコインパーキングを利用

 

どちらも所要時間は大差ないようですが、四条畷駅からのルートの方が、急な登山道を登って行かなくてはなりません。

 

というわけで、今回は四条畷駅から徒歩で向かうルートで城跡を目指したいと思います。

四条畷駅前にはコインパーキングも複数あり。

登山道入り口付近にある四条畷神社

看板の通りに進みたい

さて、飯盛山登山口に到着です。

四条畷駅からは20分ほどでしょうか。

 

ここからは山道を登って行きます。

整備はされていますが、トレッキングシューズやポールがあると便利。

登りは結構急なんでゆっくり行きましょう。

山頂部からの眺め

登り始めて20分ほどで、山上の尾根筋に出ます。

景色は素晴らしく、登ってきた実感がわいてきます。

河内、摂津など畿内を一望できる展望所

城主の三好長慶は、平地にある城館ではなく、このような山上に居城を構えました。

 

山上から天下を一望する事ができ、山麓からは天下人の城を仰ぎ見る形になります。

飯盛山城は「見下ろす城」であり「見上げられる城」である事に気づかされます。

三好長慶は、天下人としての威厳や格式、そしてそれを畿内一面に見せつける事を重要視していたのでしょうか。

 

ここではそう言った想像を巡らせながら、天下人が見たであろう絶景を存分に味わいたいですね。

ここからは登山モードから城郭探索モードへ。

どんどん進んでいきましょう。

 

飯盛山城は、南北に縦長の形状をおり、四条畷方面から登った場合は、城域の北側から南側へ尾根上を縦走することになります。

 

次々と山城特有の遺構が姿を現します。

御体塚郭~高櫓郭

展望所のある曲輪と南側「御体塚郭」の間には大規模な堀切があります。

城郭北側防御の為の堀切か

堀切先は、斜面を下っていく竪堀に繋がる。

 

堀切を超えると御体塚郭という場所にでます。

三好長慶の死去後、その死を隠すために遺体の仮埋葬がなされたと伝わる場所です。

岩石が盛り上がるようになっている御体塚郭

曲輪の中ほどには、盛り上がった岩石に石碑が建てられています。

 

当時はもう今より樹木が伐採されており、この石碑が山麓から見えたのではないかと考えられています。

そのことから、この御体塚郭は城内でも重要な意味のある曲輪であったと考えられているようです。

 

さて、このまま尾根筋を南下していくと、城域の中心部です。

石碑のある本郭

最高所 高櫓郭に建つ楠木正行公像

高櫓郭~千畳敷~南丸

飯盛山城は中心である高櫓郭を境に北側と南側で、全く異なった様相になります。

北側は険しい尾根上に狭く細長い曲輪を多数配置しており、防御面を重視していることが解ります。

反対に南側は曲輪一つ一つが広く大きくとられており、飯盛山城の居住スペースであったと考えられています。

 

これら二つのエリアは、高櫓郭南側にある堀切で隔てられています。

高櫓郭と千畳敷の間の堀切。中央には土橋が設けられている。

そのさらに南側にある堀切部。道路で大分破壊されている。

城内で最も広い空間の千畳敷

千畳敷にやってきました。ここには居住の為の施設などがあったとされています。
この付近には他にもいくつか広めの曲輪が設けられています。

南丸。家臣などの居住スペースがあったと考えられているそう。

飯盛山城は、北側と南側で城内の印象がガラッと変わります。

遠江高天神城などにある一城別郭と言えるような縄張りで、二通りの見方、楽しみ方ができる個性的なお城ですね。

石垣

飯盛山城最大の見所と言えば、やはり石垣が挙げれれるでしょうか。

城内至る所、ほぼ全域で石垣が発見されているようです。

本郭東側の曲輪群の石垣

これらの石垣は、基本的に三好時代に造られたものとされているそうで、この時代としては近江「観音寺城播磨「置塩城」など石垣が使われていた例はありますが、城域全体で石垣が確認されている例は極めて稀、というか前例はないようです。

千畳敷虎口の石垣

近年までは城全体に石垣が使われた例は、織田信長の「安土城」が先駆けとされてきました。

しかし、この飯盛山城の新発見によって、その説は見直しが必要だとも考えられ始めているようです。

 

飯盛山城は、これまでの城郭史を変えてしまうかもしれない、非常に重要な位置づけとなるお城になるのかもしれません。

御体塚郭東側の石垣

終わりに

私事ですが、筆者は大阪生まれ、大阪育ち。

大阪のお城と言えば大坂城が真っ先に思い浮かぶものでしたが、ここ最近の飯盛山城の動向に目を離せずにいます。

特に2021年の国史跡の指定により、発掘や整備が一層加速してきたように思います。

 

しかし、飯盛山城や三好氏については現在も研究が進められており、まだまだ分からない事も沢山あるようです。

 

「もっと飯盛山城について知りたい」、「もっと三好氏について知りたい」、そういった声が今後の研究を更に加速させる事になるのではないでしょうか。

 

そしてそれは飯盛山城が聳える「大阪」という街に生まれ育った者が率先して挙げるべきものではないでしょうか。

 

今後も当面の間、飯盛山城の動向から目が離せませんね。

スタンプ・御城印

大東市立歴史民俗資料館

 

開館時間: 9時30分~19時30分まで

休館日: 第一・第三火曜日、年末年始

飯盛山城のあゆみ

1348年

楠正行軍高師直の間に起った「四条畷合戦」に於いて、飯盛城が使用されたとされる。(太平記)

 

16世紀前半

木沢長政により本格的な城郭として整備、使用され始める。

 

1560年

三好長慶芥川山城から飯盛城に居城を移し、三好政権の中枢となる。

 

1564年

三好長慶飯盛山城で死去。遺体はしばらくの間、城内の御体塚郭に仮埋葬される。

三好吉継が跡を継ぐが、次第に三好氏の権力は失われていく。

 

1576年

高屋城の戦いで織田信長の攻撃により落城。そのまま廃城となる。

 

2017年

日本100名城に選定される。

 

2021年

国の史跡に指定される。

 

現在~

関西を代表する山城として、お城好き、ハイカーの憩いの場となっている。