はじめに
宇陀松山城は奈良県の東部、宇陀市にある続日本100名城に選定されているお城です。
南北朝時代、この地域の国人だった「秋山氏」が築いた秋山城が始まりとされ、豊臣系家臣や、織田信長の次男「信雄」などが領主を務めたと伝わります。
1615年の大阪夏の陣の後、城は破却される事になりますが、
その時に城割を担当したのが「小堀正一(遠州)」であるという記録が残されています。
中世秋山氏の時代から織豊期、そして小堀遠州の破城まで、その長い歴史の面影を残す宇陀松山城。
どんなお城なのか、今回もじっくり見ていきたいと思います
城跡までのアクセス
道の駅「宇陀路大宇陀」に車を停めて登城します。
車を停められない場合も大丈夫、広大な第二駐車場があります。
ここから登城口まで5分ほど歩いて行きます。
途中で「宇陀市松山地区まちかどラボ」に寄っていくのがオススメ。
ここでは宇陀松山城の紹介や道順、見所など教えて頂けます。
スタンプと御城印の販売もこちらです。
さて、まちかどラボの裏から城跡へ向けての登山道が伸びています。
登って行きましょう。
とても歩きやすいですね。
山城なのですが、アクセスはしやすい部類だと思います。
10分ほどで看板のある広場に出ます。
ここが城跡の入り口のような場所ですね。
ここからは少し山道を歩いていきます。
この辺りに来ると歩きやすい靴だと安心ですね。
空堀と土塁
左手に迫力ある空堀と土塁が登場します。
早速山城特有の遺構を楽しめます。
この辺りは、城郭の西側に位置します。
土塁→空堀→切岸とかなり厳重な防御態勢ですね。
雀門跡の虎口
そのまま進んで行くと、本丸方面へ続く虎口が姿を現しました。
幾重にも折れ曲がり、最後は二手に分かれて行きます。
こうやって見ると、かなり複雑な形状の虎口があったことが予想でき、近世城郭的な特徴を持つ山城であったことが伺えます。
また、残された石垣はほとんど原型を留めていないように見えます。
この辺りが破城が行われた痕跡という事でしょうか。
本丸と天守郭
さて、いよいよ本丸に到着です。
かなり広くスペースがとられていて、東側に天守があったとされる天守郭があります。
天守郭の東側では、大量の瓦と鬼瓦が出土しているようです。
天守もしくは、それに類する建物があったと考えられています。
また、天守郭の北東部には、一段上がったスペースがあり、天守に付属する附櫓台であったと考えられているようです。
宇陀松山城は天守郭、本丸、それを囲む帯曲輪というように、階層状に曲輪が配置されていて、非常に求心性の高い縄張りになっています。
上から順番に、城主が住む空間、家臣が住む空間と位置づけられていたのでしょうか。
いずれにしても、宇陀松山城はそういった近世城郭的な特徴を色濃く感じられる、趣のある山城です。
宇陀松山城からの眺め
続100名城スタンプ・御城印
宇陀市松山地区「まちかどラボ」
開館時間:9時~17時
休館日:年末年始
※続100名城スタンプは下記の場所にも設置されています。
宇陀市まちづくりセンター千軒舎
道の駅「宇陀路大宇陀」
宇陀松山城のあゆみ
南北朝期
宇陀三将の一人「秋山氏」が前身となる秋山城を築く。
1585年
1586年
加藤光泰が城主となる。
1592年
多賀秀種が城主となる。
1600年
福島正則の弟「福島高晴」が入部する。
この時に城を「松山城」と改名し、現在見られる姿へと城の改修を行う。
1615年
福島氏が改易され、破城。
2006年
国の史跡に指定される。
2017年
続日本100名城に選定される。
現在~
奈良県を代表する城跡として、更なる復元、整備が実施される予定である。