この地にはもともと斎藤氏の居城「稲葉山城」がありましたが、織田信長が攻め落とし、自らの居城を築いたと伝わります。
というわけで岐阜城といえば織田信長のイメージが強いでしょうか。
この街を「岐阜」と名付けたのも信長であるという話はあまりにも有名かと思います。
山麓から主郭部までロープウェイで一気に上がれるという事で、最もアクセスしやすい山城の一つではないでしょうか。
さて、織田信長は岐阜城の他にも、清洲城、小牧山城、安土城と状況に合わせて居城を転々としていくという、現在で言うところの転勤族のような形をとっていたそうです。
このように、本拠を移転していくというのは当時の価値観では主流ではなかったようです。
例えば甲斐の武田信玄は、信濃、上野と領土を拡張しますが、本拠は一貫して甲府の躑躅ヶ崎館。毛利元就も安芸郡山城から本拠を変えることなく中国地方の雄となる。北条氏は初代の宗瑞こそ韮山城が本拠ですが、二代目氏綱からは小田原城を本拠に関東に覇を唱え北条五代、輝かしい歴史を作っています。
信長はとにかく革新者といったイメージがありますが、そういった面でも新しい事をやっていたようです。
ここ岐阜城はそんな信長の4つ目の居城です。(那古屋城→清洲城→小牧山城→岐阜城→安土城)
信長には有名なエピソードが沢山ありますが、足利義昭を奉じての上洛、比叡山焼き討ち、姉川の戦い、長篠の戦いなど、多くの出来事が、ここ岐阜城在城時に起っています。
また、天下布武の印を使用し始めたのも、楽市楽座礼を出したのもここ岐阜城での出来事。
信長を語る上で外すことはできない、非常に重要なお城ですよね。
さて、岐阜城には山上の城跡部分と山麓の居館跡部分に分けられるようで、近年特に山麓部分の発掘調査が進められているようです。
かつてこの地を訪れたポルトガルの宣教師ルイス・フロイスもこの居館について書き記しているようです。
400年以上前に書き残された資料と現在の姿を照らし合わせながら楽しむ事が出来るお城なんてとても素敵ですね。
こういった楽しみ方ができるのも、近年に始まった発掘作業及び復元整備のたまものだと思います。
そして今後も引き続き様々な部分が明らかにされていくのでしょうか。
いずれにしても岐阜城の動向から目が離せそうにありません。