長野県の英雄といえば真田幸村を生んだ「真田氏」を思い浮かべる方が多いかと思います。
今回は真田幸村のお父さん「真田昌幸」が築いた堅城「上田城」へ登城したいと思います!
登城記
上田駅からは徒歩で15分ほどでしょうか。
緩やかな丘陵を登って行きます。
上田城に到着です!
ワクワクがとまりません!
早速入城します!
見どころ
①東小口櫓門と真田石
かつての上田城は江戸、上州方面への備えから東側の虎口を厳重に固めたそうです。
1994年に櫓門が復元され、かつての堅牢な姿が蘇えっています。
東虎口櫓門のすぐ脇の石垣には「真田石」と言われる鏡石があります。
真田昌幸の次男「信之」が父の形見として持ち出そうとしたという伝説があります。
お城の門の側に巨石を置くことはよく見かけるかと思いますが、ここ上田城の真田石も見逃せないスポットですね。
③3つの二重櫓
東虎口の復元された櫓門や、三つの櫓は上田城の顔と言えると思いますが、こちらの断崖「尼ヶ淵」は裏の顔といったところでしょうか。
聳え立つ断崖、そこに佇む櫓の姿にただただ圧倒されるばかりです。
⑤本丸北東部の隅欠
上田城の本丸は重厚な土塁で囲われていますが、その北東部の角に注目したいと思います。
北東という方角はいわゆる鬼門、鬼が出入りする縁起の悪い方角とされていました。
そこで土塁の北東の角をくり抜くようにして、鬼門避けとしています。
当時はこの様に土塁や石垣の角をくり抜く(隅落とし)方法や、北東部に神社を配置するなどの方法で鬼門避けとしていたようです。
上田城では隅落としの両脇に櫓を配置していたようです。
軍事施設であるお城にも、人々の施しの痕跡が見て取れて非常に面白いですね。
城主を想う「真田昌幸」
真田昌幸は上田城の築城者。
要害堅固な真田氏の居城とすべく、上田の地を選んだといいます。
実際に昌幸はこの城で二度の実戦を経験し、二度とも輝かしい戦果を上げました。
しかし、関ヶ原の戦いで西軍に与した昌幸は、息子の幸村と共に紀州九度山への流刑を命じられます。
自らの意思でこの地を選び、自らの手で要害堅固さを証明し続けた居城「上田城」を離れる。
当時の昌幸の心境に、想いを馳せずにはいられません。
上田城のあゆみ
1583年
真田昌幸によって築城が開始される
1585年
第一次上田合戦が勃発。迫り来る徳川軍を撃退した。
この頃には真田氏の拠点として本格的に使用され始めたとされる。
1600年
関ヶ原の戦いの局面の一つ、第二次上田合戦が勃発。
西軍に着いた真田昌幸は、徳川秀忠率いる東軍の攻撃を防ぎ、西方へ向かう東軍を足止めする。
1601年
関ヶ原の戦いで敗れた西軍側に着いた真田昌幸は紀州九度山に流され、上田城は徳川軍に徹底的に破却される。
1626年
小諸藩より移封された仙石忠政により、城の再建工事が開始される。この頃には現在の上田城の姿が大方固まる。
1628年
仙石忠政の死により再建工事は中断。
それ以降、普請途中の部分などの増改築は行われないまま、上田藩の藩庁として幕末を迎える。
1874年
廃藩置県により廃城。
1934年
国の史跡に指定される。
1943年から
24年の歳月を経て、北櫓と南櫓が現在の場所に再移築される
2006年
日本100名城に選定される。
現在~
上田城公園として、地域の方々やお城の方々の憩いの場となっている。